カメラを手放す あれは撮るものではなく、見るものなんだな
友人に譲ってもいいかも。
■写真は「見る物」だったと知る
GoPro6とオリンパスのO-MD E-M5 mark2を所持しているけど、どちらも手放す事に。
写真や動画なんかは、今後スマホですかねぇ。
理由として、別にスマホで十分とかって話しじゃない。
GoPro6の手ぶれ補正とか、E-M5の携行性なんかはとても気に入ってる。
自分にとっての「撮りたい物」は十分に納めてくれてた。
でも、写真って最終的には「見るもの」であって「撮るもの」ではないってのに、ようやく気づいた。
どう撮る、どう切り出す。
今の風景の最良の残し方は。
あの笑顔を切り取るためには。
経過として色々考えるけど、最終的には「後から見たい物を残す」ために撮る物なんだね。
Instagramとかも、撮るの主体ではなく見る主体だなぁ、確かに。
そこを勘違いというか、あまり意識した事なくて。
子供の頃から写真は誰かがパシャパシャしてる物って認識で。
行為やカメラよ機構とかの方にフォーカスしてて。
修学旅行とかで、廊下に写真が張り出されて購入できます、みたいな。
あれの意味が全然わからなくて、自分から買ったことがない(親が何枚か自分の写ってるもの買ってきなさいと言うから買ってた)。
そんなだから、親がアルバム作ってても見返すことはないし。
学校の卒業アルバムも写真部分はどうでも良くて、文集とか、巻末の在学中に日本であったこと年表みたいなのばっかり見てた(一応自分の写真もあった筈。ギリギリボッチではなかったし)。
そんな自分が今回の所に行き着いたタイミングがあって。
友人の結婚式の写真とか、なんかの旅行の写真とかを共有してたとき。
別にそれは誰かに見せるというよりは、他人は写真を所有するもの、って意識があったからそうしてただけで。
で、ふとした時に「写真って成果物なのか」と、たまに啓示のように落ちてくる思考がやってきて。
仕事と同じだなと。過程は、まぁ、早ければありがたいけどその程度。まずは成果物が欲しいよなぁと。
ただ、そうは思って理解はできても、出来上がった写真を見る、見返すって自分の中では特殊な行為なので定着せず。
だからって撮る行為まで辞める必要はないんだけど、撮る行為だけならスマホでもボタン押すし、シャッター音するし、写真取れるし。
とか考えると、専用機まで保有して、保管に気をつけてーとかやるコストがもったいないな。
とか考えたので、まぁ、さよならバイバイですわ。
文化の最終的な受け取り方、子供の頃に学んだほうがいいものなのかもなー。