板書は付きまとう

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【ネタバレあり】シン・ゴジラ 20160730

明日の20160807に再度観るので、今のうちに整理しておく。

思うがままに文字にしたためる。

文章にならないので注意。

 

新木場のIMAXで視聴。2番シアター。というか、そこしかIMAX無いし。

エグゼクティブシート(新木場のIMAXではこの二列のうち、前側が最高の位置だと考えている。広いスクリーンに対しての距離感が最適で、頭を動かすことなく全てが見える。それでいて離れすぎていないから、絵の周りにくるスクリーン外領域が小さい)には座れず、そのすぐ後ろのシートになった。

この位置だと、劇場の音響はエグゼクティブシート向けになっているのでサラウンドの左右後方からの音がちょうど真横に来てしまう。

まぁ、次回はね。なんて思ってたら、期間限定なのかIMAXは。早く二回目を見に行かねばならぬ。

 

ストーリーについて殆ど情報を仕入れないまま見に行ったので「なんかTwitterでは庵野節が炸裂。みたいな話しが多いけど、エヴァなのかな、どんなんかな」という気分で見に行った。

過去のゴジラ歴から考え得る最大のエヴァっぽいゴジラ、なんて物を想像していた脳みそに炸薬炸裂。想像というか、人生の規定みたいなのから随分離れた作品を観てしまったと思う。なんだありゃ。

 

私は初代様を観たことがなく、妖精が「モスラーや、モスラー」なんて歌っていたのを皮切りに(「ラモスーや、ラモスー」など、私の周りではかなり替え歌として楽しまれていた。CMかなんかでやってたんだろか)メカゴシラに対しての「やっぱメカはこんなもんか。作り物より生だよ生!」という感想など。

楽しみ方の大半が「ゴジラがミニチュアを壊す」「熱線すげぇ、スペシウムとどっちが強いんだろ」という感じ。他の人間ドラマ的な奴? ばっか、ゴジラが歩いてんのに人間見るとかあほやろ。という感じ。

だから、初代様には核兵器への云々、反戦云々、みたいな話が出てくるのを見ては「みんなどんだけ穿つんだよ」などと思っていたのだがトンデモナイ。ただの馬鹿丸出し系男子であった。

というか、特に核の当事者ではなく、また、遠く関東の地で続いてきた我が系譜には、そのあたりの共感力が小さかったのだろう。

ただし戦争と病は除く。おう、戦争で祖父亡くしとんのやぞくそが。

 

でも、今なら分かる。いや、日本の中では低い方の共感力ではあろうが、延々と東海地震の可能性を言われ続け(それこそ生まれてから今も)、実際に3.11には「遂に来る物が来たのか」と15階なんて高いところにいたため変に覚悟完了した身にとっては、今までの視聴より確実に思うところがある(が、多分電車が動かなくなった中、まだガラケーの、ワンセグで観ていたあの津波の映像と、増える数字と、自分が体験した今までで1番の自分ではどうすることもできない死への予感、を凌駕しうるナニカの映像と。そっちの方が遥かに強いが)。

 

ありきたりだが、やはりゴジラが夜の町に佇みながら熱線を吐き出す、その過程に来る物がある。

対象が辛い。向けられているのは、ゴジラに相対する怪獣ではないのだ。

流れが辛い。押し寄せる熱だけで十分に思えるのに、熱線で人が作ってきたビルまで両断する。

あの日みた映像。津波の押し寄せる現実。

あの日体感した思い。ビルの中で自分の無力を感じる現実。

何か変にマッチして、たちまちに胸が苦しくなった。

でも、目は背けられなかった。

あの日の体験と視聴が再度襲いかかり、トラウマに触発される心と、それを乗り越えようとする理性と、よく分からない感情が入り乱れて襲いかかってくる。

あの夜を境に一変した世界。あの昼過ぎを境に一変した世界。

虚構と現実が入り乱れて、現実と対岸の映像が混じり合って、もうよく分からなくなりながら最後まで観た。

 

気づけば、第2携帯の気持ち悪さ(理解すること、しあうことができないという事からくる拒絶からの嫌悪感)は吹き飛び、ゴジラが活動を停止しても晴れない、再び浮かび上がってきた現実とに翻弄されながら映画館を出ていた。

 

外は既に夜。

後ろには明かりの過剰に思えるショッピングセンター。

前には高層ビル。

あの日止まっていた地下鉄に乗り帰宅する。

 

人生の規定みたいなのから随分離れた作品を観たと思う。

なにせ、常に言われ続けていても、いざ来ればどうしようもない地震と、それがもっと力強い別の物の余波であること。沿岸部にすむ人間にとっては避けられない他の自然現象。

そういった物を受け取らされたあの日を、再度思い出させてきた作品なのだから。

 

何か生産性があるわけでもない。

虚構に対しての戦いを挑むドン・キホーテになってもしょうが無い。

でも、あの出来事が自分にはかなりの負担だったことに気付いた。

今は、その事を受け止めて、現実と折り合いを付けて行くことを考える必要がありそうだ。

まだ、このあたりの自然に対する脅威が消えた分けてもないのだし。